最近、勉強したいという欲が沸々と湧いている。昨日、下津曲がブログの中で「根性というのは、ある程度の地位までは『地頭』の良さやビジネススキルを凌駕するものだと思っています」という言葉を述べていたが、確かにそれは正しい。しかし、逆に言うとあくまでも“ある程度の地位までは”なのだ。その先を超えていくには、知性や技術が必要になってくる。そして今まさに自分は、そのちょうど境目となる壁の前に立ちはだかっているような気がしてならない。
今まではそこそこの技術力と、若いなりの体力と根性でやってきたけれど、そろそろ潮時であることも本能的に感じている。此処から先は、知性であり、知恵であり、技術力での勝負になるだろう。「エモさ」で戦える年齢はとうに過ぎている。
さて。いわゆる教育機関というのは、学問を収めて知識を醸成するための機関というよりも、勉強に対するアプローチを学ぶための機関であるように思う。特に大学院はそう。これは、大学院時代から気付いていたわけではなく、卒業して数年経った今だからこそわかることである。
大人になってから「勉強しよう!」となったとき、多くの人はとりあえず本を読もうとする。とにかく人より多くの本を読むことで、脳に運ぶ情報の絶対量を増やそうとする。これ自体が必ずしも間違っていることとは思わないし、自分もとりあえず勉強しようと思ったら本を探す。ただし、先ほどの勉強に対するアプローチの話に照らし合わせると、いかに「本を読む」の先にある学習方法を体得しているかというのが、30歳を超えた大人が変わらぬ伸び率でその先に進んでいけるかどうかの鍵を担っているように思う。
(このテーマは長くなるのでまた思い立ったときに続きを書きます)