よく、「Twitterのフォロワーを増やしたかったら、文字制限ぎりぎりの長文を多数投稿すればいい」というTIp的なものを見るけど、実際にそれを実行し続けられる人はすごい。僕もそれに倣って「よし、長文をツイートしてやろう」と思うものの、たいていそのときに捻り出した芸のないツイートを1,2個ポストする程度で終わってしまう。140字は、時として「まだまだ書き足りない」と思うほど少ないが、同時に「140字も書くことなんてないよな…」と落ち込むほど多い。
「意見」の総量というものがあると思う。例えば、いろんな出来事に対していろんな意見を持ち、それを素直に発信したり、その思いを周囲にぶつける人がいる。一方で、あまり自分の意見を表に出さない人もいる。後者について、それは「思っているけど外に出さない」ようにしているわけではなく、単に「意見」を持つことが少ない、ということなのではないか。同じ事象を見聞きしても、人によって抱く感想や、照らし合わせられる知識には差がある。それと同じように、「その物事について意見を持つかどうか」も、人によって差があるのではないかと思う。
なにか大きな出来事が起こると、意見を求められる。特に、著名人ともなるとコメントを求められたり、取材に応じたりしないといけないこともあるだろう。それは、そうした立場の人に課せられた仕事だ。仕方がない。けれど、それで報酬を受取ったり、声明を発信する必要がない人たちにとって、「意見を持つこと」は「意見を持たないこと」と同じくらい尊重されるべきだ。「そのことについては、何の意見も持っていない」と発することが、なにかの意見を発することと同じメッセージになる時代が、早く来ればいいなと思う。