よく考えてみると「暮らし」って、なんというか、個人が好きに生きる結果がそうなるのであって、提案したりされたりするようなことでもないと思うんだよな。暮らしは、その積み重ねが≒人生と考えられるので、暮らし方を他者の価値観に委ねることは、人生を委ねることとほぼ同じことなのでは?
— shimotsu (@shimotsu_) October 6, 2017
これは今日ふと気がついて、ツイートした内容です。
「暮らし」に関する議論や提言は、もういろんなところでイヤというほどされています。雑誌ではいつもどこかで見た「新しいライフスタイル」「丁寧な暮らし」が特集され、テレビではいまだに芸能人の豪華な家が持て囃され、Twitterでは「丁寧な暮らし(笑)」と揶揄され続けています。
「暮らし」とはなんだろう?と考えた時に、自分は「生活」となんらかわりのないものだと思いました。その両者の違いは「語感」だけであって、何も変わらないと。なので、暮らしとはヒトの生活様式のことを指す概念である、という結論に至ったのですが、ってことはそれの「提案」ってなに? というところに行き着きまして。その結果が冒頭のツイート、ということになります。
言うなれば、「轍」みたいなものだと思うんですよね、「暮らし」って。その個人が生きてきた結果がそれぞれ「Aみたいな暮らし」「Bみたいな暮らし」…となんとなくジャンル分け/カテゴリ分けされているだけであって、目指したり、どこか目標に向かってつくりあげるようなものではないんじゃないかな、と。
自分が追い求める「理想の暮らし」がしたいなら、まず自分がなにを求めているのか、どんな生き方がフィットしているのか、自分に合わない価値観は何なのか、というあたりのことを徹底的に見つめ直して、日々それをやっていくだけなんじゃないでしょうか。ようは、100%自己満足を追い求めるということです。そこに他者の目、価値観は一切介在しません。関係ないのです。いかに自分の価値観に忠実にいられるか。
それが、雑誌で「提案」されているような「暮らし」よりも、手っ取り早く、確実に自分の「暮らし」を実現できる方法なのではないかと思います。いかがでしょうか?