今日「言語化に成功した」とか「言語化し共有してはじめて価値になる」といった価値観について考えていたのですが、現代において「言語化すること」は過大評価されているんじゃないかと感じています。
こう、なんでもかんでも無理やりテキストに落とし込んで表明すること、これがよしとされている風潮があるような気がするのですが、それってどうなんだろう…と。これは別に、「そういう言動が散見されるよなあ」という苦言でもなんでもなく、自分自身もやってしまいがちなことです。
たとえば、映画を観たり本を読むと、それ専用の管理サービスで感想を共有するためやログのために残しておいたりします。つまり、感想の言語化を行います。そこで初めて「どんな作品だったか」をテキストで絞り出します。これは、普通に日常的に行われていることかと思います。
でも同時に思うのが、言語化した時点でほとんど多くの情報は削ぎ落とされてしまうということです。言語化するさい、その「イメージ」を100%言語に乗せて表現することなんて不可能で、脳内のイメージを言語を持って再現するのは、頑張ってもせいぜい30%くらいなんじゃないかと思います。
しかも、その30%の情報(あえて、「情報」としました)なんて、多くの同じように体験した人が感じるものとほぼ似通っているものだと思います。だからこそ、言語として抽出できる。
そう考えていくと、逆に、言語化できない70%の部分の方が断然重要で、「どうやってそれを保てるか」みたいなことを考えていました。脳内の言語化できないイメージをそのままモヤモヤした状態で取り出して保存できるような、そんな仕組みがあったらいいなと。「めちゃくちゃ激しくてヤバイ戦闘シーン」と言われるより、それを見た時の脳内のイメージをそのままドンと共有したほうが遥かに伝わりますよね。
非言語的なコミュニケーションの極地だとは思うのですが、少なくとも自分が生きている間には社会に登場してそうな気もします。